塗師
赤木 明登さん(あかぎ あきとさん)
能登を代表する文化であり、国の重要無形文化財でもある輪島塗。
東京での雑誌編集者生活から一転、この伝統ある漆の世界にゼロから飛び込んだ
塗師(ぬし)の赤木明登さん。
従来の絢爛豪華な輪島塗ではなく、“普段使い”としての漆器を追求し続ける赤木さんの世界観に、
多田健太郎が迫りました!
バブルの東京を離れ、突如“輪島”へ!
赤木さんの前職は、雑誌編集者。東京の世界文化社で、伝統ある婦人雑誌『家庭画報』の編集を担当していました。入社は1985年、日本がバブル前夜の好景気に沸いていた時代です。ところが入社して3年半が経った頃、赤木さんは編集者生活に突如ピリオドを打ちます。
「仕事はおもしろかったし、給料もビックリするほどもらえました。おいしいものを食べ、刺激的な人と出会い、本を読み、旅もしました。しかし、毎日は充実していたのに、本当にやりたいことがわからなかったんです」
さらに、当時すでに結婚をしていたものの、互いに忙しい毎日の中に、一緒にご飯を食べたり、子どもと遊んだり、家でゴロゴロしたりという“当たり前の暮らし”が何もなかったとか。そして赤木さんは、唐突に「編集者を辞めて職人になる」と宣言します。
「なぜ漆をやろうと思ったのか、実は自分にもわからないんですよ。輪島に来たのも、そこ以外は思いつきもしなかったからです。知人の奥さんの実家が輪島市内のお寺だったという細い縁を頼り、住む家や漆の親方まで見つけていただきました。新宿のギャラリーで働き、日本中の作家を訪ね歩いていた妻の智子も、『いつかは自分も地方で暮らす気がしていた』と、生まれ育った東京を離れ、一緒について来てくれました」
そこから家族3人、輪島の田舎で新しい生活が始まります。それは、仕事も、人間関係も、食べものすらも手作りという、まさにゼロからの再スタートだったそうです。
「作家」と「職人」の違いとは?
輪島塗は分業体制が特徴で、ひとつの器は、各工程を担当する職人たちの手を経て完成します。木から器の形を削り出す「木地」、丈夫で美しい器を作るために漆を塗り重ねる「下地」や「上塗り」、装飾を施す「蒔絵」や「沈金」など、各パートをそれぞれのプロが担います。
「僕は下地職人の親方について修行しました。そして独立し、今は『塗師(ぬし)』という立場で仕事をしています。これは『上塗り』のパートを担いつつ、全体をプロデュースしていく役割です」
赤木さんが作るのは、“日常生活で使える”という点に徹底的にこだわった漆器。ファンも多く、毎月のように全国で個展が開かれています。
「芸術性が高く、“魅せる”ことを目的とした器を作るのが作家だとしたら、利便性が高く、“使える道具”としての器を作るのが職人です。僕は後者がカッコイイと思っていますが、職人は自分が作った器に自分で値段をつけて売るということはしません。だから僕は、職人という肩書きを名乗れないんです」
4年間の修行を経て独立した1994年、赤木さんは東京で初の個展を開催します。そして97年にはドイツ国立美術館『日本の現代塗り物12人』展に選ばれ、2000年には東京国立近代美術館『うつわをみる─暮らしに息づく工芸』展に出品。さらには04年、ヨーロッパ最大のデザインミュージアム「ピナコテーク・デア・モデルネ」に作品が収蔵されるなど、ブレないスタイルで国内外から高い評価を得ています。
「こういうスタイルの漆器作りには、気づいたらなっていたというだけですね。もちろん職人としての矜持は、今でも持ち続けています」
“使えるぬりもの”で漆を日常に
職人技術の粋を集めて作られた輪島塗は、堅牢にして優美な高級品として知られています。絢爛豪華な漆器には芸術としての価値も認められており、特にバブルの時代は百万単位の値段がつくなど、輪島は高級漆器の産地として大いに栄えました。
「従来の輪島塗は、昔ながらの日本家屋みたいな、質素でほの暗い空間で映えるように作られていたと思います。陰影のある空間だからこそ、ピカピカで派手な漆器が美しく見えたわけです。しかし、現代の生活空間というのは、蛍光灯で明るく照らされ、モノもあふれている。そんな空間にあっては、ツヤを抑えた控えめな漆器の方が美しく見えるというのが僕の考えです」
赤木さんの作る器は、表面の仕上げに和紙が用いられており、マットで暖かみのある表情が特徴的です。さらにこの構造により、従来の高級漆器にあった「手跡や傷がつきやすく、扱いづらい」という弱点も克服。こうして“使えるぬりもの”は作られています。
「普通のお椀だったら、15000円程度で販売しています。これは普段使いの食器としては高く感じられるかもしれません。しかし、今は家でご飯を食べる人も増えていますよね。作り手の顔が見え、生活を豊かにし、修理もできる一生モノの器を買うと思えば、逆に安く感じるかもしれない。使う人にそれだけの価値を提供できたらという気持ちで漆器を作っています」
“見せて伝える”漆のエトセトラ
赤木さんの元では現在、7名のお弟子さんが修行を積んでいます。輪島塗の世界には古くからの徒弟制度が残っており、4〜5年の修行期間を経て一人前になれるというのが一般的だそうです。
「27歳で輪島に来たとき、どこの馬の骨かもわからない僕を親方は受け入れてくれ、能登に何百年も伝わるような貴重な技術を伝授してくれました。僕はそれを若い人にパスしているだけで、当たり前のことをしているまでです」
漆の技術を体得するには、さぞ厳しい修行が行われているのだろうと思いきや…いわく「特に何も教えていない」のだとか!?
「漆の仕事って、高度な技術や奥義秘伝があるように思われますが、実は誰にでもできる作業なんですよ。でも、コツは自分で発見しなければなりません。僕の親方も『赤木君には何も教えることができなかった』としきりに繰り返していましたが、僕は横でしっかり仕事を盗ませてもらった。結局、質の高い仕事を間近で見せることが、何よりの教えになるんだと思います」
赤木さんがお弟子さんに見せているのは、漆器作りの技術にとどまりません。漆で食べていくためには、世の中に必要とされるものを作る力、ギャラリーやバイヤーさんとのつき合い、産地の中での人間関係など、様々なものが求められるそうで、それらすべてを間近で見せてあげるのが赤木式の育成です。
「工房の磁場が強いのか、弟子がすぐ結婚して、子どもがたくさん生まれるんですよ。お祝いがかさむのには、ちょっと困っているんだけどね(笑)」
輪島で見つけた「豊かさ」とは何か?
修行期間を終えた94年、赤木さんは輪島の山奥に家を建てます。それが現在の工房兼自宅。周囲の自然と一体化したような、本当に素敵なお家です。
「この家には、毎日のようにお客さんが来ています。おもしろいのは、地元の人と都会から来た人で感想が真逆なこと。前者は『なんちゅうひでえとこに住んどるのか』と言うけど、後者は『何ていいところに住んでいるんですか』と言ってくれます。携帯の電波が届かないことも、夜が暗すぎることも、不便ではあるけれど、捉え方次第では大きな魅力になりますからね」
漆の世界に飛び込んでからの半生を綴った著書『漆塗師物語』に、印象的なエピソードがあります。水道設備のない地域に建つ赤木家では、「山の水」を自力で整備した配管から引いているのですが、蛇口から流れる水を、赤木さんはずっと眺めているのです。
〈この水は、水道をひねって、いつでも当たり前のように、ジャーッと出てくる水とは、わけが違うのだ。(中略)「あのね、この水は『生きている水』なんだよ。だから、いつまでも見つめていられるんだ」〉
漆は元々、ウルシの木からわずかばかり採れる樹液であり、そこに地元の珪藻土を焼いて作った「地の粉」を混ぜて用いるのが輪島塗です。赤木家の食卓には、自前の畑で採れた無農薬野菜が毎日並びます。能登の自然に根ざした豊かさ──。東京から輪島へと移り住んだ赤木さんが得たものは、人生をより豊かにしてくれる仕事や生活だったのではないでしょうか。
「それはホント、家族、特に妻・智子の支えあってのものです。もしひとりで輪島に来ていたら、今のようなことはできません。多分、“都会から移住してきた変な人”で終わっていたでしょうね(笑)」
赤木明登うるし工房 映像紹介
赤木さんプロフィール
赤木さんに会いに行く
多田屋から車で90分
〒929-2374
石川県輪島市三井町内屋ハゼノキ75
- TEL:
- 0768-26-1922
(赤木明登うるし工房)
私と赤木さんの共通点は歯医者が嫌い。それだけで勝手になついて年に何度か遊びにお邪魔したりしています。赤木さんの作品もアトリエも好きで、そこに込められた思いや人柄に沢山刺激を受け、多田家は皆赤木さんのファンでもあります。